「がんばる」と逆にうまくいかないのではないか

「がんばる」と逆にうまくいかないのではないか

がんばる、という言葉は日常的に使われます。

がんばること、に対してポジティブな印象を持っている人も多いはずです。

しかしながら、僕は「がんばること」が必ずしもいいことだとは思えません。なぜなら「がんばる」ことは「少し無理をしている」という意味だと思うからです。

しかも、大抵の場合は自分の欲望のために「がんばる」というパターンで使われることが多いように感じます。

それが悪いこととは思いませんが、行き過ぎると苦しいのではないかと思います。自分の欲望のために「本心」を抑えて無理をしている、という人は意外と多いのではないでしょうか。

そうした我欲のために無理をしている状態が多くの場合に僕が「がんばる」から感じるニュアンスです。もちろん、すべてのケースがそうだと言っているわけではないのですが。

我欲を満たすために無理をしている、というのはなんだか変な話にも思えてきます。ここで大事なのは「我欲」と「本心」みたいなのは別だということです。

また「がんばる」ことで結果的に目的から遠ざかるということも少なくないのではないかと感じます。経験的にですが、なにかに執着することでその対象は離れてしまう、ということが多いように思えます。

もちろん、がんばらなくてはいけないときもあります。ここは譲れないってときはあるでしょう。誰か大事な人のためだったり、コミュニティのためだったり、世界のためだったり。それは美しいことです。

でも、日常的ながんばる(我欲のために)は、なんだか美しくないですし、結果として自分の望みが叶うことを阻害しているんじゃないかとすら思えるわけです。

というようなことを最近思っているので、今回は「がんばる」ということについて僕なりに感じることを書いていくことにします。

がんばると逆にうまくいかないのでは?説

上でも書いたようにがんばると逆にうまくいかないのでは、と思ったりします。その理由は大きく2つかなと分析しています。

  • がんばることで過度の合理化が生まれ、創造性の発揮が阻まれる
  • がんばると続かない

というものです。それぞれ説明します。

がんばることで過度の合理化が生まれ、創造性の発揮が阻まれる

上でも書いたんですが、自分の欲望のためにがんばるのって、結果的にその対象への執着心を強めて、遠ざけているんじゃないかなと思います。

対象物に対して「手に入るといいなあ」とぼんやり思っておいて、あとは忘れて好きなことをやっているのが理想的な心の持ちようなんじゃないかと最近は思う次第です。

我欲への執着を完全になくしてしまうわけではないんだけど、そこまで対象の願望を絶対視しないという感覚で過ごすことが、結果的に願望に近づきやすくしてくれるんじゃないかと思うわけです。

あえて「がんばらない」ほうがうまくいくとしたら、その理由は「適度な余裕」が生まれることにあると思っています。ガチガチに力を入れると、どうしても余裕のない行動を取りがちです。そういう状態は過度な合理化に行き着きます。

一見それは無駄なく最短で願望を実現する方法のようにも思えるんですが、願いを叶える道筋がストレートに見えるわけがないというのは過去の経験から誰しも理解できることでしょう。

余裕のなさから生まれる過度な合理化は、創造性を阻んでいるんじゃないかと思います。願望を実現していない状態の自分が「願望を叶えるために必要だと思うこと」なんていうのは冷静に考えれば当てになりません。

貧乏人が考える「お金持ちになる方法」と同じようなものです。普通はそんなものは信じないはずです。けれど、自分自身の願望実現においては同じことをやってしまっているように思えるのです。

願望を実現するためには、今ある考えを当てにしない姿勢が大事なのではと思っています。創造性が発揮された上で出てくるアイディアや思考は、通常状態の思考を上回る何かを持っている可能性が高いはず。そうしたアイディア・思考を大事にしたほうが成功確率が上がると考えています。合理的な思考1本で勝負するのは逆に愚かな気がしてなりません。

だから、「手に入るといいなあ」とぼんやり思いつつも執着せず忘れる、というやり方がよいのではと思っています。

変な話ですけど、願望側も必死に迫ってくるヤツがいたら逃げたくなるんじゃないかと思うわけです。

願望側の気持ちになってみれば、自分に好意を向けてくれてるけど余裕のある態度で接してくれる人のところにいきたいなーと思うんじゃないでしょうか。

あながちこういうアナロジーって馬鹿にできないと思っています。八百万の神々的な感覚です。物や概念にも、自然界において働く抽象度の高い基本法則は当てはまると思います。

その理屈でいうと「追われたら逃げたくなる」「迫られたら拒絶したくなる」というのは自然に働く力のように思います。まあ、一番わかりやすいところで言えば人間の心理はそうでしょう。恋愛ではあんまりしつこくされると嫌いになると思いますし、ちょっと距離を取られると逆に気になっちゃうみたいなやつです。

一番気になる距離感は「好意がありそうなんだけど、特に言い寄って来る感じでもない」じゃないでしょうか。人によるのかな。

あとはなんだろうな。他の良い例えはあんまり浮かばないんですが(笑)。掴みに行くと掴めないみたいなのってありません?犬は逃げたら追ってくる、っていうのは逆の話か。魚を捕まえようと思ったら、ガッと掴みにいくと逃げちゃう的な。魚が寄ってくるのを待って、掴めるところまできたら掴む的な。なんかそんなようなことを言いたいのです。

がんばると続かない

上でも書きましたが「がんばる」っていうのは「ちょっと無理をする」というニュアンスが入ってると思います。

がんばらなきゃできないってことは何かに抵抗しているということじゃないですか。

がんばらなくてもやっちゃうことってたくさんあると思います。本当に好きなことだったら夢中になって止められてもやってしまうでしょう。あれって見る人から見ればがんばってるように見えるかもしれませんけど、本人からしたらがんばってるなんて感覚は微塵もないはずです。なんかイチローもそんなこと言ってた気がします。

だから、がんばらないといけないようなことをやるのって、エネルギーロスがデカイと思います。摩擦的なものを押し返すのに力を使っているわけなので。

そう考えると「好きなことで生きていく」っていうYoutuber的なコンセプトはまあ悪くないよなと思うわけです。ただ、この話ってすごい繊細な感覚の理解が必要だと思っていて「好きなことで生きていく」の解釈は個人的にはクソムズイと思っています。

パッと見、イメージしやすい言葉なんですけど、多分大半の人が勘違いして行動に落としているような、そんな印象があります。僕自身、この感覚を正確に理解していたら、もっと何かを成しているような気がするのです。いや、ほんとこの「好きなこと」が表現してるモノを理解するのってムズくないですか?

何がムズイかという部分の言語化をもうちょっとがんばってみます。

多分なんですけど「好きなこと」と「我欲」の混同みたいなのが諸悪の根源のような気がします。

これ、「一緒だろ」と思う人もいるかもしれないんですが、全然違うものだと僕は思います。これを一緒に考えるから「好きなこと」をやっているはずなのに、いつのまにか行動を辞めてしまって結果が出ない、ということになってしまうと思うんですよねえ。

「好きなこと」だったら無理せず続けられちゃうと思います。けど、結局どっかで無理が発生していて続かなくなっているというか。いや、もちろんどんなに好きなことやってても大変なことってあるんで、「がんばる」っぽい瞬間は色々あると思うんですけど、それをひっくるめても続けてしまうっていうのが「好きなこと」だと思うんですよね。

「好きなこと」の実践って、「やりて〜」って思うことというよりは「自分の素直な気持ち」と向き合うことによってたどり着けることのように思います。それで、「自分の素直な気持ち」って理解するのがめちゃムズイってのがあります。欲望とは違うんすよねえ。

「素直な気持ち」の実践って、場合によっては緊張感を感じて「やりたくない」と思うことをやることかもしれないというか。楽だからやりたいとか、気持ちいいからやりたい、みたいなのって素直な気持ちの実践じゃない場合もあるんだよなと思うわけです。いやー、まあ楽とか気持ちいいが素直な気持ちのパターンもあるんだよな...。やっぱめっちゃムズイ話だなこれ。

もう少し自分の中でモデル化できたらまた書きたいですねこれは。多分、一段抽象度をあげて上手くまとめることができるような気もしてて、それができればもう少しわかりやすく書けるんじゃないかなと思います。それができるのはいつになるのかわからないけど。

で、なんかウダウダいってしまいましたが「がんばる」ということは何かに逆らって行動を起こすという話にどうしてもなってくるので、エネルギーロスが発生して、結果続かないという結果につながりまっせ、ということが書きたいことでした。

まあそれでも「がんばる能力」が高い人は、そんなロスもなんのそので結果を出す人もいますね。もし自分がそうだったらすでにもっと何か成しているはずなので少なくとも僕は違うんですが。ただそういう人にしたって、がんばることでエネルギーをロスしているのは確かです。だからやっぱり「がんばる」のネガティブな側面をもう少し理解したほうがいいと思う次第であります。

逆に「がんばらない」に対する誤解

で、ここまで散々「がんばる」を否定するようなことを書いてきたわけですが、「がんばらない」という言葉にもかなり注意が必要だなと思います。

「がんばらない」というのは楽をする、ということとはまた違うということです。どちらかというと「何もしない」という感覚のほうが近いように思います。自然な状態でいるというか。これまた実践がムズイんですけど。

「がんばる」と良くないことありますよねって話を書いておきつつ「がんばらない」の実践も注意が必要だよ、っていう面倒な話をしちゃってますね。でもこの辺の感覚を理解するのってすごい大事だと思うんですよね。僕自身もっと理解したいというか。わからないなって思うんですよ。

これがわかると自然と行動が「素直な気持ちの実践」になると思っていて、そうやって生きていたいなと僕は思っています。

「お金がほしい」とか、そういう気持ちで動いてしまいがちなんですけど、それって本当にやりたいことっていうか、「そのほうがいいよね」って考えてから生まれてる気持ちなんで、それはちょっと本心ではないよなと思っています。それで本心ではないことをやろうとすると「がんばる」必要がでてきて続かないんだよなと。

けど、お金がほしい的な願望があるのは確かなので、それはぼんやりと「ほしいなあ」と思いつつ、頭を捻ったりもしつつ、そのときそのときで「素直な気持ち」にしたがって行動していく。そんな感覚がいい塩梅なのではと思っています。

さいごに

ぐだぐだと書きましたが、ちょくちょくこういうポエムを書き溜めていこうかなと思っております。

自分の集中状態を意識する

集中状態を意識するだけで、何をいつやるかが明確になる。

今どれくらい集中しているのか?を把握できていれば、無理に難しいことをやって何も進まない...的な状況をなくせる。

上記パターンにはまることは意外と多い。ウンウンうなっているけど、まったく進捗がでない、というような場合は思い当たらないだろうか?

それは実力不足ではなく、集中できていないだけのケースは多い。驚くほど捗る経験があれば、それもわかるのではないだろうか。

「楽しいこと」をする重要性

自分が楽しいと感じることをしよう、と言えば様々な意見が返ってくるだろう。

義務感にかられてやるべきことをやる、ということを重視する人もいる。

好きなことやってたら成功するんやでーというのは嘘だ!といいたい人もいるのではなかろうか。

でも、もう少しシンプルに考えてみれば、「楽しいこと」は自分の精神的なエネルギーを回復させる。ずーっとやらねばやらねばと、苦役を自分に課していれば、当たり前に疲労する。それを実感したことはこれまでもあったのではないだろうか?

「楽しいこと」をすることで、体にとっての睡眠のような作用を心に与えることができるのではないかと思う。普段我慢している人はたまには楽しんでみよう。

義務感エネルギー

義務感でやっているときはその分エネルギーを使う。

義務感でやらなくていいように工夫する手もあるし、そもそもそういうものを実施する時間を減らすという手もあるだろう。

とにかくこのエネルギーの存在に自覚的かどうかは重要だと思う。見えない敵が見えるようになる。

やりたくないのとめんどくさいのは(多分)違う

やりたくないことはやらない。

そういう話をするときに難しいのは、じゃあ「楽なことだけ」やろう、というイメージに繋がることだと思う。

でも、めんどくさいことによってやりたくないと思ってしまっているだけのことというのもある。

それを混ぜて考えるのは違うよなあと思った次第である。

本気を再定義する

「本気」をイメージしたときどういう状態が浮かぶだろう?

多くの人は「うおらああああ」となって、がむしゃらに取り組む姿をイメージするかもしれない。しかしながら、それで上手くいった試しがあるだろうか?自分にはあまりない(笑)。冷静になりながら燃えている必要があるのは明らかである。

本気だったら感情的にならずに、実現すべきものを実現させるために何をするのが最も有効なのかを考え、経験・知識を振り絞ってパフォーマンスを維持しながら安定的な生産性を出していくことだろう。

本気だあ!とかいって徹夜して、生産性だだ下がりで作業して、翌日には寝落ちしてしまう、なんてのははたした本気なのだろうか?

本気を再定義しよう。

慣れ

慣れというのはパワーがある。

慣れというのは「一貫性」という言葉があるように、一つの性質を維持するための力のようなものを持っている。これは、上手く扱うことができればバリアのようにも使えるし、ネガティブな作用としてはなかなか悪いサイクルを抜け出せないということになる。

慣れのパワーと扱いを心得ていこう。